あることないことマンと、数撃つ鉄砲

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雑記

あることないことマン

「あることないことマン」。それは奥さんが僕につけた称号だ。渾名とも言う。

どういう由来かと言えば、「本当か嘘かわからない適当な事しか言わないから」だという。

なんとまあ、無礼な話だ。まるで僕が当代切ってのちゃらんぽらんのようではないか。無実の証明をすべく、試しにある日の会話を思い返してみる。

二人で街を歩いていて。

パ「(KFCの看板を見て)カーネルサンダースって、実はチキンあまり好きじゃなかったらしいね」
奥「ほんと?」
パ「確か、ね」
奥「また適当なこと言って」
パ「あ、あとケンタッキーのチキンに部位がある理由は、鶏肉の仕入れ時に部位を限定するよりもまとめて購入した方が安く仕入れられるかららしいよ」
奥「本当っぽいけどほんと?」
パ「たぶんね」
奥「だと思った」

・・・うーん、確かに言う通りだった。言い逃れが出来ない。失敬失敬。

ちなみに、カーネルサンダースのチキンの好き嫌いに関しては情報が見つからなかったので、

真の適当発言ということになる。

適当な事ばかり言う、というのはかなり信用ならない人物像である。一番身近な身内からこれを言われている時点でたいていの人はショックを受けそうだ。

しかし僕にとってはさしたるダメージはない。更に言えば、今後やめるつもりもない。これは僕の中にある思いのためなのだ。あまり取り柄がない僕の人生に一つ通しておきたい、芯のようなものと言っても良い

なぜ、適当な事ばかり言うのか

答えを簡潔に言ってしまえば、「『適当にしゃべる』事がコミュニケーションにおける武器だから」という事に尽きる。

僕にとって、適当な物言いとは会話の”フック”である。中身の真偽や信憑性に関してはほとんどどうだってよい。大事なのは、そのフックから、次の会話や思考にシームレスにつなげる事なのだ。そうしてコミュニケーションを成立させるのが大局的な目的であり、適当な物言いはただの布石というわけである。

各人コミュニケーションにおける得意スタイルはあると思うが、一般的なベースラインと比べ、基本的に非言語的な部分での(見た目の良さや、ふるまいの自然さと言うべきか)での劣りを感じている他、言語的な部分でもなかなか一言で核心を突くような、要は端的な物言いが出来ていない自覚がある。こういう人間にとって十全なコミュニケーションをとるには、テクニカルな小技が必要なのだ。

諺で「下手な鉄砲、数撃ちゃあたる」というだろう。
要は「数撃っている」のである。

数撃つ事のメリット

こうしたフックを打つ事の何が良いのか。
まず、会話を途切れさせることが目に見えて少なくなる。
得てして人は沈黙を打破しがたいものであり、そのために逡巡する時間もまた沈黙に加担してしまうため、あまり頭の回転が早くないものにとっては悪循環に陥りやすい。そうした状況への入り口を封鎖するのには、ひとまず沈黙を差し挟まれる隙を無くす根本対応が良かろう、と言うわけだ。

もう一つ挙げるとすれば、相手の反応が多く返ってくる事だろう。
コミュニケーションの相手を理解するのに情報は多ければ多いほど良い。
「この話題には食いつき悪いな」や、「この話題自分より知ってるな」など、相手のステータスを知り、それに合わせたコミュニケーションをとる事で、相手を不快がらせたりする確率は大いに減っていくはずだ。

数撃つには博学たれ

とは言うものの、適当な事を四六時中言うことにはデメリットも存在する。簡単な話で、「信用されない」のである。こいつの言う事は全くのデタラメなので話半分に聞いておこう、という姿勢が相手にできてしまっては、会話のし甲斐もないし、そもそもの目的であるコミュニケーションが不全に終わってしまう。自分の矜持を保ちつつ(重要)これを回避するにはある程度の真実や、信憑性を織り交ぜていくのがよかろう。

それを担保する方法は色々に考えられるが、多分一番簡単で、無意識のうちに実践しているのは「博学たる」事だろう、と僕は考えている。

何かのトピックに関して専門の知識があるならそれを話せばよい。もし専門知識が無くても、別の知識と観測からの類推で信憑を生み出せばよいのだ。

逆説的ではあるが、適当であり続けるために僕はインプットを怠らずそしてそれを常にアウトプットに変換している学習態度的に模範的な人物というわけだ。

・・・結局この文章で何が言いたいかと言えば、最後の文章で格好をつけたかっただけなのだが、それは皆の心の内にしまっておいてもらえれば幸いである。

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