祖父と僕と語り部

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雑記

祖父という人物

僕には今年87歳になる祖父がいる。祖母は7年ほど前に亡くなり、叔父と二人暮らしをしていたが、その叔父も大動脈解離で急死、今は一人で暮らしている。

僕の実家との距離は近いので、頻繁に親が様子を見に行っておりそこまで心配するような状況ではないが、それでも年が年だけにいつ大事になるかは分からない。僕も今年子供が生まれたので早いうちに見せたいのだが、コロナウイルスの影響でどこまで外出が出来るか・・・。祖父と会う時間はすでに限られていることに思いを馳せた時、 ふと彼のある癖を思い出した。

祖父はかなりの酒豪で、夕方5時くらいからマグカップに紙パックの日本酒をなみなみと注ぎ、レンジであっためて熱燗にして飲む人だ。おそらく量は減ったものの今もその習慣は変わらないだろう。

僕が実家を出て東京で暮らす前、我が家ではこの時間以降に祖父に電話を掛ける事は原則禁じられていた。何故か。

「酔うと話がめちゃめちゃ長くなる」

そして

「繰り返し同じ話をする」

のである。故に、電話代がかさむからであった。

酔った祖父の話すこと

現在の社会情勢から始まり、学校に行っている孫(僕のことである)の成績の話、当時まだ結婚していなかった叔父へのコメントなど、トピックは多岐にわたる。

その中でも特に多かったのが、

「戦争で徴兵された祖父の兄とその死」「僕と祖父が育ったこの街の歴史」

の2本立てである。

酔って感情の制御があまり利かなくなり、亡くなった肉親の話をしたくなるのは確かによくわかる。そもそも、戦争に行って死んだのだから死に目にも会えていない。祖父との距離も近かったはずだ。幼い時に負ったこのショックが一生昇華できなかったとしても何ら不思議でもなく、折に触れ思い出すのであろう。

僕にとって不思議なのはもう一つの方だった。なぜか祖父は僕の住んでいた青森という街がいかにして今の姿に構成されていったか、かつての姿はどうであったか、何があったのかなどを訥々と話すのだ。

20世紀の今そんな事を言われても、正直知ったところで何かの役に立つとは思えず、聞き流すのが常であった。

街と人のかかわり

しかし、年月が経ち、僕自身が5つの街に住む事を経験しそして子を持つ今では少し捉え方が変わってきた。

具体的に言えば、街の歴史と言うのは、同時にそこに住む人たちの進歩と共存の歴史でもあると思うようになった。

街の発展は建物や社会の構築がつきもので、そのためには人間がプロジェクトを立ち上げて行わなければならない。神が勝手にそれらを建てるとするのはあくまで創世記の主張にすぎず、実際には誰かが旗を振り、建物を潰し、作り、催し、また潰し、作っているわけだ。

土地の借用もあるだろうし、災害の訪れからの互助もあるだろう。壊れながらも直り続いていくその流れにおいては、必ず人が介在している。

無論、そうした発展の歴史を記録する概念と言うのは既にあり、市史がそれに当たるだろう。だがその市史も、戦時中に記録された史料がどこまで正確か、というのに依存してしまうので、必ずしも正確ではなく、また個々人にはフォーカスせず大局的な見方でしか記されない。(性質上仕方のないことではあるのだが)

祖父は、特にこの市史と自分の記憶との食い違いや市史の記載の抜け漏れというところになると、少し熱を帯びた話し方になっていたような気がする。

それはどうしてか。

おそらくは、誤った歴史が後世に伝わる事は、当時そこに息づいていた自分も含めた人の営みを否定することになってしまう。それは自分や周囲の人間の人生が一部でも無になってしまうのと同義であり、そうなってしまうのを避けるために熱心に話していたのではないか。と、30を間近に迎えた今、僕は思い至った。

語り部になるのは難しい(が、やる価値はある)

祖父は、自分が青森に住んでいた昔の人々のための語り部であろうとした。
そしてそれを、僕にも引き継ごうとしたのではないだろうか。

であれば、特に不都合が無い限りはその意見を尊重するのが人情と言うものだろう。

しかし祖父の遺志を継いで(―まだまだ死んでほしくはないが)僕が街と人の語り部になるためには、"青森で"自分や周りの環境に起こった出来事を、出来るだけ鮮明に心に刻んでおく必要がある。

僕自身は仕事や子育てにすぐ忙殺されてしまうタイプで、かつ今は東京に住んでいる。したがってこれを意識して行うのは案外辛い物がある。毎週青森に帰るというのも、出費の面で現実的ではない(往復3万弱かかるのだ)

ではどうすればよいかと言うと、こんな僕にも地元の友人は複数人いて、うれしい事にまだ連絡を取れるのが何人か残っている。彼らに話を聞いてみるのがよいだろう。

突然で気味悪がられるかもしれないが、一つのライフワークとしてやる価値はあると考えている。

将来的に青森という共同体はなくなってしまうかもしれないが、そこに生きていた人々の軌跡までもがなくなってしまうのは勿体ないから。

まずは、中学校の同級生からかな。そもそも誰が生きてるのかも知らないけどな(白目)

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